伊藤忠?歴史豆知识

「内助の功」を超えて事业を支えた初代忠兵卫夫人?八重

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初代伊藤忠兵卫一家(中央が初代忠兵卫、その左に立っているのが二代忠兵卫、左端は八重夫人)

初代伊藤忠兵卫の妻であり、二代伊藤忠兵卫の母である伊藤八重(1952年没)は、「内助の功」を超えた働きで、伊藤家の事业を支えた女性である。初代忠兵卫が1872年(明治5年)、大阪?本町に「红忠」を开店した际、八重は豊郷にある伊藤本家の运営を一手に引き受けた。大阪店で使う米やたばこの选定、味噌や梅干しの渍け込み、ふとんの打ち直し、店员の着物や下駄の调达などの里方的な仕事はもとより、初代忠兵卫のパートナーとして、江州地域での近江麻布の仕入れを一人で取り仕切った。
新入店员の教育も八重の重要な仕事のひとつだった。当时、伊藤家の店に见习い店员として採用されると、まず豊郷の本家に送り込まれ、八重から行仪作法や読み书きそろばんなど店员として必要な教育を施された。そして八重は、この教育の过程で一人ひとりの性格や能力を见极め、それぞれの力量、适正に応じた配属先を考え、初代忠兵卫に进言するなど、人事面でも重要な役割を担っていた。のちに二代忠兵卫は母八重のことを「彼女は家庭の主妇とか人の母であるとかいうより、仕事の上で父のパートナーであった」と述懐している。
さらに八重夫人の本领が発挥されたのは初代忠兵卫が亡くなり、息子精一に二代忠兵卫を継がせたときのこと。八重は二代忠兵卫を店に入れる际、何の役职もつけずに丁稚奉公からスタートさせ、周囲を惊かせた。二代忠兵卫は、辛い下积みの修业时代を経験することで、将来経営者として立っていくために欠かせない贵重な事柄をたくさん学んだに违いない。

日本初の鉄筋コンクリート仓库

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日本初の鉄筋コンクリート造りの安土町仓库(大正2年)

时代の潮流に敏感だった二代忠兵卫は、経営者として新しいものを次々と取り入れた。
1913年(大正2年)に作られた安土仓库は、わが国初の鉄筋コンクリート造りの仓库だった。1910年(明治43年)、忠兵卫がイギリスから持ち帰ったコンクリート建筑に関する図书を基に二代忠兵卫と竹中工务店社长の竹中藤右卫门氏が研究を重ね、建设したのである。3阶建て、高さ约12メートルのトラベリングクレーンを备えた安土仓库は、当时の日本には例のない先进的な建物であり、この最新式の设备を一目见ようと多くの人が见学に访れた。
1915年(大正4年)に新筑された本店は、大阪最初の鉄筋コンクリート造りの店舗であった。建坪5,610平方メートル、地上4阶、地下1阶、エレベーター2基、ダムウェーター(小荷物専用昇降机)1基、温水式暖房设备など、当时の呉服屋としては大変珍しい、近代的な设备を备えた大规模な建筑であった。また同时に、本馆屋根には本葺きの和风瓦、壁の腰回りの一部をナマコ风の土蔵仕上げにするなど和洋折衷の仕様にして、来客に亲近感を持ってもらうよう配虑した。この建物は、当时の建筑家やマスコミからも高い评価を受け、新筑记念の大売り出しには各地からの来客で賑わった。

雑货が主力商品?! 终戦直后の伊藤忠

终戦から1947年(昭和22年)顷までは繊维製品の生产や物资の生产?流通はまだ轨道に乗らず、多くの商品が厳しい统制下にあった。终戦直后の伊藤忠はこのような统制品の取扱代行の业务が主であった。终戦直后の食粮难や物资不足の中で、伊藤忠は何でも扱った。例えば1946年(昭和21年)8月から1947年(昭和22年)7月までの1年间では、次のような雑货类の売上が全体売り上げの3割以上を占め、本来の主力商品である繊维製品をも超えていた。

食品

醤油の素、福神渍け、干しエビ、ブドウ糖、ソーセージ、カレー粉、ところてん等

家庭用品

锅、釜、金だらい、刃物、大工道具、砥石、ひしゃく、茶碗、缶入りローソク、买い物かご、铅笔、履物、鼻绪、园芸用品、熊手等

薬品

医疗品、化粧品、石鹸等

小型器具类

製粉机、藁切り机、スコップ等

国际人を育てた社员教育

伊藤忠は创业以来、商社の资本である人材育成には力を入れてきたが、高度成长期には时代の急速な进歩と业容の発展により社员に要求される知识や能力も一段と高度になっていった。それまでの翱闯罢方式の社员教育だけでは不十分となり、1961年(昭和36年)2月に教育委员会が设置された。また同年4月、人事部に教育课が设けられ、社员教育の推进体制が整えられた。
中でも若手社员には「海外出张适格考査」の受験を奨励し、商社マンの资质の向上に役立てた。この制度は他商社に先駆け1952年(昭和27年)に伊藤忠が始めたもので、进歩的な制度として世间の注目を集めた。
また、新入社员の中から优秀者を选んで海外各国に派遣する海外研修生制度も1955年(昭和30年)から伊藤忠が率先して始めたものだ。当初は2名程度をアメリカなどの先进国へ派遣し、昼间は现地店での実习、夜间に通学させていたが、1960年(昭和35年)からは毎年5~6名を2年间、実务を离れて勉学に専念させ、先进国だけではなく、発展途上国にも派遣するようになった。

メールがない时代には?

まだファックスも电子メールもない时代、テレックスという通信手段が使われていた。テレックスとは文字情报をネットワークの中で送受信する通信机器のことで、当时の商社には欠かせないものだった。テレックスはキーボードの付いた电话という形态をしており、送る侧が电话と同じように番号で相手を呼び出し、文をキーボードで打って送信すると、相手のテレックスに印刷される。伊藤忠では国内は1953年(昭和28年)に东京-大阪间、海外は1956年(昭和31年)に东京-アメリカ间が开通した。当时は电话代が高额だったため、电话代の约10分の1の経费で済むテレックスの使用が奨励された。また、より短い文章の方が経费削减につながるため、罢碍厂(迟丑补苍办蝉)、狈罢顿(苍辞迟别诲)、颁贵搁惭顿(肠辞苍蹿颈谤尘别诲)のように、さまざまな略语が使われた。その后、ファックスや电子メールが普及するにつれて、テレックスは次第に姿を消していった。

东京オリンピックに东南アジア高校生を招待

伊藤忠は1964年(昭和39年)に开かれた东京オリンピックを记念して、インド、パキスタン、フィリピン、マレーシア、タイ、香港、韩国、インドネシアの8カ国の高校生と新闻记者16名を招待した。これらの高校生は、各国で募集した伊藤忠の悬赏论文の入赏者で、応募数2,000名の中から选ばれた各国の代表であった。10日间の日本滞在中、オリンピック観戦をはじめ、东京、京都、大阪での产业や文化施设の见学、数回にわたる歓迎会、交换会などが行われ、有意义な国际亲善の场となった。

社歌からイメージソングへ

かつて伊藤忠には「世界をつなぐ」という社歌があった。「世界をつなぐ」は1969年(昭和44年)4月25日、大阪本社新社屋「伊藤忠ビル」完成の际に行われた伊藤忠商事创业100周年记念式典の席上で発表された。作曲は、いずみたくさん(1992年没)(作词 山上路夫)。いずみさんは当时、数々の颁惭ソングや「见上げてごらん夜の星を」「世界は二人のために」などヒット曲で知られる売れっ子作曲家だった。
现在、昼休みや电话の保留音で流れている伊藤忠イメージソングは、1992年(平成4年)に作られたもの。作曲したのは数多くの映画、テレビ番组、アニメーション、颁惭などの作曲?编曲を手がける服部克久さん。代表作に「ザ?ベストテン」「ピンポンパン」のテーマ、爱知万博のクロージングテーマの作曲、「ミュージックフェア」の编曲などがある。

社歌「世界をつなぐ」歌词

遥か明治の夜明けより
辉く歴史を受け継いで
世界の国の隅々に
理想の旗を扬げて进む
楽しきときも 苦しきときも
跃进日本筑き行く
颁滨 颁滨 世界を繋ぐ伊藤忠

ねむの木学园と二代伊藤忠兵卫

2012年(平成24年)10月26日、伊藤忠商事东京本社に隣接するシーアイプラザに伊藤忠青山アートスクエアがオープンした。オープニング企画は「ねむの木のこどもたちとまり子美术展」(入场料はすべて「ねむの木学园」に寄付)。
このとき、同展覧会のディレクターを务めたねむの木学园园长の宫城まり子さんからこんなメッセージをいただいた。(抜粋)
「ねむの木学园と名付けた学园が建ち上がって一週间くらいたった顷、お客様が一人いらっしゃいました。『新闻で知ってね。どうしても见学したくなって来ましたよ。』八人の子ども达を见て『良いお仕事ですね。私达がやらなくてはいけないのに、がんばりなさいよ。』そうおっしゃってお名刺を下さいました。「あれ、伊藤忠って、伊藤忠兵卫さんのことだわ。」私でもお名前は知っている。颜を上げたら、もう玄関に待たせてあった黒い车のドアを运転手さんが取っ手に手をかけられるところでした。「待ってください。」その方は「又、来ますよ。」と手を振ってお立ちになりました。」
これは1968年(昭和43年)、当时歌手?女优として活跃していた宫城まり子さんが日本最初の肢体不自由児养护施设「ねむの木学园」を创设した年の秋、静冈県掛川市郊外にある同施设を二代伊藤忠兵卫がお忍びで访问し、学园に寄付をしたときのエピソードだ。
二代忠兵卫がひそかに応援した「ねむの木学园」访问から44年后、伊藤忠はその心を引き継ぎ、展覧会の开催という形で同学园を支援した。

伊藤忠健康宪章

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伊藤忠商事は2016年(平成28年)6月、「健康力商社No.1」を目指し、「伊藤忠健康宪章」を制定した。伊藤忠はこれまでも朝型勤務を中心とする働き方改革の推進で「健康力」の増強を図り「人材力」強化の土台を作ってきた。今後、さらに社員一人ひとりが自分の健康に関心を持ち、いつまでも健康で働けるよう、さまざまな観点で取り組みを推進していく。
「商人は、健康でなければならない」これは、二代伊藤忠兵卫の商人哲学のひとつだが、「一人の商人」が「无数の使命」を果たしていくための「健康への责任」は、昔も今も変わることはない。

具体的な取り组み

  1. 「働き方改革」の推进
    • 朝型勤务のさらなる进化
    • 精勤休暇取得向上
  2. 「食事」「运动」サポート强化体制
    • 健康诊断结果をデータに连动させた「健康惭测笔补驳别」の创设
    • 若手社员の生活习惯予备军への个别コンシュルジュプログラム新设
    • 食堂のヘルシーメニューのさらなる充実
  3. 喫烟率削减に向けた取り组み
    • 禁烟治疗费の全额补助化(个人负担ゼロ)
    • 健康管理室における禁烟指导の推进
  4. 職場环境整備によるリフレッシュ促進
    • 健康増进に配虑した统合独身寮の设立
    • シャワーラウンジの新设